チタン製の印鑑

ジャズファンの集まりで知ったジャズ評論家が慶應医学部講師だと知り「慶應医学部に行ったらジャズが聞ける」という勘違いで著者は慶応に進学します。というか、慶應医学部は難しさで東大理3(=医学部)と並び称されていませんでしたっけ? たとえ勘違いでもそれで合格してしまうとはただ者ではありません。そして「本場でジャズを聴きたい」という情熱から、1962年マンハッタンのマウント・サイナイ病院への留学に飛びつきます。著者は人生の節目に「ジャズ」で進路を決めています。

日米の医学の違いは様々ありました。医療制度も医業技術も人の意識も全然違います。面白いのは、当時の日本では注射器はガラス製でしたが(私は覚えています)アメリカはすでにプラスチックの使い捨てだったのですが、その注射器がテルモ製(=日本製)。また、すでに本人に対する癌の告知が行われていました。日本は30年経ってからアメリカのやり方を受け入れているようです。
一日おきに当直(一晩に必ず数回は起こされる)、隔週ごとに週末は当直、というきつい仕事ですが若さで乗り切り、著者はジャズも楽しみます。当直ではない夜にはライブハウスに通います。レジデントの月給は166ドルですが衣食住の基本は無料なので、ライブハウスの平日2ドル週末3ドルの料金も支払うことができました。1年の留学が終わったときには、帰国前にニューポート・ジャズ・フェスティバルへ。1週間の至福の時を著者は堪能します。